昭和49年08月12日 朝の御理解



 御神訓 一、「何を食うにも飲むにもありがたく頂く心を忘れなよ。」

 有り難く頂く心、これが生きた信心ですね。有り難く頂くと言う事が難しい。これは本当に信心を頂かなければ本当の有り難いという心は出来ないのじゃないかと思う。有り難く、有り難く頂く心なのである。ですから信心はもう全てここのところを、焦点を置いて信心の稽古をさせて頂く。その前のところに、食物はわが心で毒にも薬にもなるものぞと。毒にも薬にもなるもの。問題は有り難く頂けば薬にもなると言う事。問題は有り難く頂く心が難しいのです。
 昨夜お食事の時に、空豆ビールの付きなどに出る枝豆です、枝豆が洋食皿に出てまいりました。あの孫の聡子が一緒に食事をしますが、家内が子供にこれはいかんから隠しておくというてから、飯台の下にいれたのです。けれどもちゃんと見ておりますから探すわけです。そしてから私がそう言う事をするなと。悪いとか良いとかというのじゃない、問題は有り難く頂くこと。子供だから分からんから。
 だから婆さんのお前が有り難く頂く心を持って、頂かせりゃ、そんなことせんで出せと言うたわけなんです。そしたらほんなことじゃというて、(?)私と家内と私4人ですから、慌てて頂きますと今度はその、聡子も慌てて頂くですだからゆっくり食べていい、一つ一つ食べていいよといったら、自分は一つ一つゆっくり頂くのですよ。問題はその婆さんが爺さんがね、食べちゃならんとかね、早う食べてしもうてと言う事ではいかんという事。もうね、爺様も有り難く頂き、婆さんも有りがたく頂く心で頂いたら良いのです。そしたら孫も有り難く頂くのです。
 それを自分で決めて、豆は普通一般から言うたらです、成程下痢を起す元になるとかなんとかとまあ言う訳でしょうけれども、信心をさせて頂くものはそうじゃないです。例えば私は糖尿病に甘いものはいけない。いうなら辛いのなんかは厳禁。これが出来ないなら糖尿病はその、治らんとさえ言われる位ですけれども、私は甘いものもいっぱい頂く、辛い物は尚更いっぱい頂く、辛いもの甘いもの問題は有り難く頂く心なのだ。
 まだ、私共の嫁達の場合なんかそこのところが分からん。分からんのがあたりまえなのです。時々にはあの、言いよります。もう良子さんが心配するけん、良子さん居らん時に食べさすればよかばってん、あの人がおるけん食べさせられん、とかなんとか言う訳です。だから私は信心がスッキリすると言う事は、そんなことだと思うんですよ。やはりあの、それがやはりしだこだな考えというかね、まあ半信半疑な心では、やっぱりいけないです。スッキリすることです。
 昨日、原さんが頂いておられますようにね、もうあれだけの信心が一番今日は私はあの、昨日、桜井先生が遅う今日はあちらこちらに、宣伝に回らせて頂きました。というてそのお届があっております時に、自転車から単車に乗り換えられるところを頂きました。今までは自転車で一生懸命の信心をしておりましたね。いわゆる信心がですよ、いうなら自力一本のような感じでいきよりなさった。ところが最近はもう、神様のおかげでいうならば一人乗りですかね、自動車じゃないから。
 一人しか乗られんけれども、いうならば神様のおかげでまあいうならば、他力を中心にしたところの自力といったような感じです。今までは自力を中心としたところの他力であってそれはその、いわば自力を捨てるという事じゃないか。他力が中心でそして、自立を持って、いうならば何軒も宣伝に回られたと言う訳です。その時に私宣伝というのが一番適切ですから宣伝と言いよりますけれども、今日私があの、ここで頂いた事なんですけれどもというて、そのことを聞いて頂いた。
 例えばこの信心というものは、自ら自身の精神革命です。例えば食物一つの事であってもです、これは栄養になるとかならないとか、これは毒になるとか薬になるとか、そういう考え方がです普通の人が考えておる様な考えが一掃すると言う事は精神革命が出来なければ出来る事じゃないです。確かに神様の恩物として、神様のお作り与えて下さった、しかも命のために作り与えて下さった御食物であるとしての頂き方というものが、はっきり頂くと言う事は、そこに心の革命が出来なければ出きる事じゃない。
 そこからです、私はあの宣伝という、「合楽示現活動」と言う事になる。合楽示現、示現と言う事は示し現すと言う事。示現運動です。いうならば合楽示現会というてもよいかもしれない。合楽示現のために回らせて頂く。少し難しい言葉は違いますけれども、理屈は同じです。示し現すと言う事。問題は自分自身が示しておらなければならない。自分自身が合楽をすっきりとして頂き、頂いておかなければならない。中途半端じゃいけん。それを表す。
 その例えば合楽示現活動に御互いが邁進しておられるわけですね。特に合楽の熱心な方達の場合は、それに一生懸命考えておられる。合楽宣伝でなくて、合楽示現ということになる。ちょっといい難い又は、実感として宣伝と言う風にいいかもしれませんけれども、宣伝ではなにか知らんけれども、商品を宣伝するような感じですから、大体はそうなんです。けれども合楽風にそれを理解しますと、示現と言う事になる。
 だからいわばそういう合楽示現活動に邁進する人達のまあ、一つの小さい団体というものが出来るとするならば合楽示現活動そういう運動が展開されなければなりません。また、展開されつつあるのです。だからそう言う事になったら、私はこういう風に文章にしてみた。(?)発足に例えばあたってと発足ですね。あたってと。「現代の文化はこれほどに驚異的に進歩を遂げたにも関わらず、人類の幸福がそれに伴わないのはどういう訳かというとそういう疑問が残る。
 しかし現実はそれどころかむしろ幸福とは逆に全人類が今や一大不幸の坩堝の中に投げ込まれておる寸前ではあるまいか。その不安の根本的過ちを悟り、精神の立てなおし、幸福の原点に立ち返る、暗黒無明の世界に一大光明の輪を広げていかねばならんと言う事なります」ね。一大光明の輪を広げていくと言う事なんです。それにはね私自身が、光明を持たなければ光りをもたなければならん。しかもそれはすっきり合楽を頂き現しておらなければならない。自分自身が。
 それを拡げていくというわけなんです。ところが中々やはりはっきりとと言う事はなら、金光様のご信心を頂いておっても、食物一つでも何を食うにも飲むにもです、有り難く頂く心。その有り難く頂く心を忘れなと仰るから忘れまいとしておるけれども、忘れておったりまたは、食物をこれは毒になるの薬になると自分で決めておると言うことがもうすでにはっきりしていない証拠。それがはっきりしてくると、例えば糖尿病には甘いものは絶対いけませんよと医学では言うけれども、私はそれを絶対頂く。
 わざわざ頂くというわけではないけれども。毎朝、久富さんのお茶を頂く時には必ず羊羹なり、色んなお茶に相応しい、甘いお菓子が出てきております。それをやっぱり頂きます。こんだ、久富先生と夕食する時にはね、もう必ず一緒に晩酌を致します。この頃はお神酒一本づつじゃ足らんから、少しこの頃は焼酎までもこの頃は少しづつ頂くようにいたしております。
 例えばそれを心配する人が横におるとするなら、とても心配でたまらないでしょう。神様が命の為に創り与えて下さった、食物であり、飲み物であるというのですから、問題は有り難く頂く心がすっきりとしてくるから、私には一つも触らないと言う事なのです。いや触らないところか、私には薬になっておると言う事です。自分の心一つで薬にも毒にもなる。今の合楽で言われておるいうならば、合楽示現運動と言う事もです、まだはっきりとしていない。
 先生は毎日毎日あげん言いなさるばってん、という程度でまだ本気でその事の運動に参加しようとする心すら起こってない人が沢山ありましょう。例えばなら参画しておる人でありましても、まだすっきりしていないのです。それが昨日原さんが頂いておられますように、一階から2階、今ままでは一階におったのが、二階に上がるほどしに、合楽の信心が一段階高められた。
 けれどもそこではまだ、水が薄濁りににごっておる。すっきりしていないと言う所。これがスッキリした時にいわゆる限りないお恵みの水が頂けれるようになるだろうというお知らせを頂いておられました。ですからここのところがです、例えば食物はわが心で毒にも薬にもなるのです。だから有り難く頂く心を持ってすると、普通一般では毒になるものでも、反対に薬になるのです。
 そこんところをすっきり頂き方を、私共は信心の稽古によってです一切を有り難い有り難いで、受けていけれる心を創って行くところに、信心の稽古がいることになるのです。昨日ある方が夕べでした、人間関係で大変悩んでおられます。昼お参りになったそうですけれども、私共下がっておりましたから、また夜参っておられます。その方のお取次ぎをさせて頂いた時にです、今聞いて頂いた、ちょうど夕食の時のその、枝豆のその事を頂きました。これは人間関係というても三角関係なんです。
 それは、まあ、女として大変それは難儀な事です、こんないうならば情けないとか歯痒い思いをする事はなかろうと思う。様々あります。この頃からは反対に、奥さんの方が間違う、いわゆる男の方がそれこそ男泣きに泣いてお届けをされました。けれどもその時に頂きました、御理解によって見違えるように変わりました。奥さんがもうそれこそ、泣き泣きお詫びをされました。ところがそこからです、もうそれこそ、本当に素晴らしいおかげが生まれてきているのです。
 それはもう本当にね、そういう問題ですから、詳らかにお話はできませんですけれども、自分の心の変わり方一つでこんなにもおかげを頂くもんかというくらいにおかげを頂いた。人間ですから、いうならね、どういう魔がさしてくるか、どういう過ちを起こすか分かりません。けれどもそれを一々、例えばとがみおうていくならばです、問題はいよいよ問題を生んでいくだけです。それを私がならじっと辛抱しときゃよかと言った様な事ではそれは本当につまらん話です。
 それも信心によって教えによって有りがたく頂けれた時にです、もうそれこそ、その事のおかげで素晴らしいおかげになってきておるのです。昨日私その事を頂きましたからです、例えばその枝豆を食べさせまいとすると余計に食べたがりますよと私は申しました。隠したらそれこそ、どこさへ行ったじゃろうかと思うて余計探しまわって食べますよと私。だからね、もう食卓の上に出たのだから、もう見ておるのだから、もう問題はそこまで、進んでおるのだから色々もう有り難く頂く。
 ゆっくり有り難く頂きゃ、この皿一皿食べたら後は食べようと言わんごたるおかげになるから、心配しなさいますな申しました。問題はその食べ方ですそれを食べるといかんばのというていうから余計食べるのです。追いかけて食べるから又、(?)食べる。人間の心理というものはそんなものです。例えばたらいの中の水をこちらに引けば向こうに逃げるようなもの。だから反対に押すようになってくると、こちらの方へ帰ってくるようにです、それけんちいうて行きなさい、行きなさい。
 はあ今夜もあちらに行きなさいというてから押しやるという意味じゃないですよ、けれども心をそれだけ豊かに大きくしていく事なんです。しかもかすかながらでも信心があるのですからいよいよ教えに基づいた生き方をさせて頂こう、こういう悲しい難儀な問題に直面しておる事によって、今まで信心がいや、信心が強い信心にならせて頂く。問題は私自身が助からなければならない。
 こういう忌まわしい事困った事ですけれども、それをね、有り難くとまではいきませんでもです、それを有り難く頂く心を忘れなよと。だからおかげで修行が出来ますと言う事にならなければいけませんよという意味の事を聞いて頂いた。ここはですから決して、何を食うにも飲むにもと言う事は、食物のことですけれども一切にそうなのです。食物の事だけではないです。
 それをここでいよいよ成り行きを大事にする、成り行きの上に起きてきたその問題が嫌で嫌でたまらんことであっても起きてきたことであるから、有り難く頂く事になるとです、これは毒になる事ではない、おかげになるものだという事が分かる。子供達に子供にさあ、生水を飲んではいけないよと。枝まめなんか食べさせてはいけないよと、食べちゃいけませんよと親が言うておる間は生水が毒になり、枝豆が下痢の基にもなるでしょう。けれどもそれをね。
 押し頂く心、何を食うにも飲むにも、有り難く頂く心を、すっきり頂かせてもろうて、頂いたらそれは毒にもならなければ、害にもならない。いわゆる薬になる。そこのところを私はすっきりと分かっていく事が、信心だと言う事をです、その稽古をする事なのです。毎日ね。ですからそういう例えばなら、事件とか問題とかでもです、わが心で毒にもくすりにもなるのであるから、そのために一生をめちゃめちゃにすると言う人は、もう毒にしたわけです。
 若い時、あんなことがあったけれどもあの時以来おかげを頂いて信心も強くならせてもろうた。信心を分からせてもろうた。あれ以来、あの人も立てばこの人も立つ。自分も立ち行くようなこんな素晴らしいおかげの世界が開けてきたという、いわば毒が薬になるほどしのおかげが頂けれるのに、そこのところをとうざをして、食べていかん、食卓の下に隠すような事をするから、いつまで絶ってもそれが毒になるのです。食べ物も事柄も道理においては同じ事なのです。
 とりわけ合楽ではその成り行きそのものをいよいよ尊ぶいよいよ、大切にするというところにあるのですから、なるほど大切にしにくい事もありますけれども、それを大切にする稽古を、その修行を本気でさせて頂くところからです、これは思いもかけない、おかげになってくる。信心もすっきりと何を飲んでも食べてもそれが薬にしかならないような、おかげがいただかれるわけです。糖尿病になっても怖い事がない。何を飲んでも食べてもおかげが頂けれるという世界があるのです。
 問題はそれをすっきりと頂く事なのです。今の合楽のね示現活動に参画させてもらう。けれどもまだなにとはなしにすっきりしないけれども、それが段々おかげを頂いておる内にです、自他共に助かる道、神様の願いが成就し、自分達の願いも成就してくる道であると言う事がすっきり分かった時に本当のいわば合楽を現したと言う事になるのじゃないでしょうか、神様も喜んでくださり、私共も喜べるおかげの世界がある。すなわち合楽を現すと言う事です。合楽示現活動にいよいよ参画させて頂いてそれもすっきりとおかげを頂けれるような信心を頂きたいものですね。
   どうぞ。